
扇子森
私は長い間、不思議に思っていた。なぜ、ただの一枚の静止画が人の心を揺さぶるのだろう。
写真は光の記録に過ぎない。そこには音もない。風も吹かない。匂いもない。しかしある写真は人を何十年も前の記憶へ連れ戻す。
ある時、私の星空写真を見た人がこう言った。
「私の見た星空はこれなんです」
私は驚いた。その人がどこでその星空を見たのかも知らない。何年前のことかも分からない。それなのに、その人の中では私の写真と自分の記憶が結び付いていた。
別の人はこう言った。
「昔見て感動した星空はこの色なんです」
その人は写真を評価していたのではない。自分の記憶を語っていた。
そして忘れられない言葉がある。
「深煎りコーヒーみたい」
私はその一言に唸った。深煎りのコーヒーは誰にでも好まれるわけではない。苦味がある。しかし好きな人は何度も味わう。飲み終わった後も余韻が残る。
その言葉は写真を説明していたのではない。写真によって起きた体験を語っていた。
そこで気づいた。人は写真を見ているようでいて、実は写真だけを見ているのではない。写真をきっかけにして、自分自身の人生を見ているのだ。
しかし、すべての写真が誰かの記憶を呼び起こすわけではない。ある人は私の写真を見てこう言った。
「分からない」
以前の私は、伝えたかったものが伝わらなかった。だから失敗だったのだと思っていた。しかし今は少し違う。その言葉もまた、その人自身を語っていたのだと思う。
ある人は『私の見た星空はこれなんです』と言う。
ある人は『深煎りコーヒーみたい』と言う。
そしてある人は『分からない』と言う。
私は以前、この三つを成功と失敗に分けていた。今はそう思わない。どれも同じように、その人自身の応答だからである。
考えてみれば、人は互いのことを完全には理解できない。家族であっても。友人であっても。何十年連れ添った夫婦であっても。相手の人生をすべて知ることはできない。ましてや、一枚の写真に込められた思いを完全に理解することなどできないだろう。
私たちは分からないものに囲まれて生きている。だから『分からない』という感想もまた大切なものなのだと思う。それは拒絶ではない。一つの人間の存在である。その人にはその人の風景があり、その人にはその人の記憶があり、その人にはその人の人生がある。
私の写真がそこへ届かなかったとしても、それは失敗とは限らない。むしろ、人と人との間には埋めきれない距離があることを教えてくれている。
今なら少し分かる気がする。写真が時間を超えるのではない。人間が時間を超えるのだ。写真は扉に過ぎない。その扉を開くのは見る人であり、その先に広がるのは見る人自身の記憶である。だから同じ写真を見ても人によってまったく違う世界が現れる。そこに写っているのは風景だけではない。その人の人生であり、記憶であり、喜びであり、悲しみである。
私が撮りたいのは、もしかすると風景そのものではない。星空そのものでもない。鳥海山そのものでもない。紅葉そのものでもない。
私が撮りたいのは、その風景によって揺り動かされる人の心である。
そして願わくば、一枚の写真が誰かの記憶の扉を開き、『私の見た星空はこれなんです』そう言ってもらえるような写真を撮り続けたいと思う。
写真が人をつなぐのではない。人は決して完全にはつながれない中で、それでもなお、つながろうとするのだ。私が撮っていたのは風景ではなく、人と人との間にある不完全な距離だったのかもしれない。